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Posted by OZAKI-20
 
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1991-0520-monday
fukkatsu-003

映画になっている91年の5月20日の横浜アリーナの写真です。
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Posted by OZAKI-20
 
[Tajima
OZAKI STONE
stone91

 尾崎豊の写真を撮ることになって、しばらくはモノクロームしか撮らないことを決めると気が楽になった。その頃、ぼくの写真家としてのキャリアは充分なものではなく、カメラも35ミリ一眼レフが二台とブローニータイプが一台で、交換レンズは五本も無かったように思う。アートディレクターとして、グラフィックデザイナーとして、そのうえフォトグラファーとしても尾崎さんに関わることになり、たくさんのことをディレクションしていく立場にあったぼくは、まず写真の撮り方を決めると、デビュー以降の展開が明確になったのが分かった。
 
 ロケーションの現場に着くと、尾崎くんは笑顔でぼくの前に現れた。写真として必要なカットは、次に発売が決まったシングル曲「卒業」のジャケット用のものだった。ぼくがその日、彼と会ったのは、あの衝撃的なジャンプで全国に尾崎豊の名前が知れ渡った日比谷野外音楽堂でのライブ以来だった。「尾崎くん、どう、まだ足は痛むの」とこの先の撮影のことを考えて訊いてみると「ええ、もう大丈夫ですが、まだここに補強材が入ってるんですよ」そう言って彼は足首のところを指差し、そのことが煩わしそうな表情をした。
 照明用のトラスに登って、コンクリートのステージに跳び降り、足を骨折してしまった壮絶なステージパフォーマンスは、ぼくの脳裏に焼き付いたままだった。撮影に適した所に向かいながら、どうして、あんな高いところからジャンプしたのか、と訊いてみると「いやあ、上まで登ったら、観客がみんなで飛び降りろ、ジャンプしろって、手招きしてたんですよ、それで、仕方なく…」そう言って、バツが悪そうに笑った。 ぼくはあの日、ライブ会場の最後部でカメラを構え、その一部始終を撮っていた。望遠レンズ越しにはその表情までよく見えていた。彼があのとき跳び降りた理由は他にもあることは分かっていた。

 「卒業」を聴いてからというもの、ぼくのなかの尾崎豊像は完成に近づいていた。それにしても、アルバム「十七歳の地図」は衝撃だったが、その時、既に三十代だったぼくにとって、それは少し離れた世界でもあった。しかし「卒業」という一曲は違っていた。この曲が持つ普遍性に気付くと、ぼくにとっての尾崎豊はより近い存在になっていた。世代の壁を超えて、彼が挑もうとしている境地を感じていた。
 思えば、あの日のロケーションは、ある意味で軽率な仕掛けの写真を撮ることだった。ぼくは小道具として石ころを一個携えていた。「卒業」の衝撃的な一節「夜の校舎、窓ガラス、壊して廻った…」を聴いて、なんと美しい情景なのだろうと思った。夜の学校に忍び込み、教室の窓ガラスを割ってしまうという場面を想い描くと、高校生にとって、これ以上の行き場の無いレジスタンスはあるのだろうかと思った。それは無垢な時代にだけ許される美学かも知れなかった。
 
 石を渡すと、尾崎くんはぼくが撮ろうとしていることを、直ぐに分かってくれた。さりげなく構えたその姿は思った以上のものだった。
 薄曇りの空には風もなく、気持ちが良い日だった。喧噪を離れた公園は静かなもので、誰ひとりとして、そんな都会の片隅で行われている地味な撮影に興味を示すものは居なかった。

(田島照久)
Posted by OZAKI-20
 
[Tajima
笑顔の尾崎豊
smile55

普通、尾崎豊のようなロックアーティストの場合、あまり笑顔の写真をオフィシャルに使うことはありません。それに、尾崎くんもそれは望んではいませんでした。ただ、ぼくはこのカットの笑顔は特別な気がしたので、一枚ダメもとで焼いておいて、これどうかな?と見せたところ、わあー、と驚いて、良い、特にこのほっぺたのシワが良いです!田島さん、これ歌詞カード(街路樹の)に使いませんか?ということになりました。
どうしてこんなリラックスした表情で笑っていたのかは思い出せませんが、この前のカットはずっとサングラスをしてポーズをキメてますから、ちょっと一休み、といったところだったと思います。 (田島照久)
Posted by OZAKI-20
 
[Tajima
「1985年のアイスクリーム」
love-1
love-55

facebook からの転載です。

撮影時に感じたことを以前に文章にしていたものです。

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「1985年のアイスクリーム」 田島照久

 晩夏の太陽は西に傾き、この日のフォト・セッションは終盤にさしかかろうとしていた。19歳のロックンローラーは西参道の交差点を横切ったカットのあと、突然、撮影中にもかかわらず誰かに電話をかけ始めた。大切な用事を思い出したのか、撮影のためのパフォーマンスとしてひらめいたのかはともかく、確かにその電話の相手とは何かしらの会話があるようで、しだいに笑い声も混じり、ついに背中を向けると受話器を抱えてうずくまってしまった。よほどおかしいことなのか、背中が小刻みに揺れ続けている。
 今日こそは尾崎豊の一部始終をカメラに収めるのだと、ぼくは彼と固い決意をしていた。にもかかわらず、そんな後ろ姿なら3カットも撮れば充分で、ぼくは所在なく、その背中の揺れが止まるのをじっと待つしかなかった。
 電話は長引いてしまい、知らないうちにぼくは隣りの雑貨屋の店先に並べられた、ふだんは注意すら注いだこともないような生活の品々を、ぼんやりと眺めていた。「田島さん、アイスクリームでも、食べません?」電話を終えた彼の声がぼくを現実へと引き戻してくれた。そういえば熱い1日だった。そして彼のその言葉は、今日はもう終わりにしましょうよ、と言っているようにも聞こえた。
 ぼくらは熱くてキツかったフォト・セッションの慰安のために、その雑貨屋でアイスクリームを買い、誰もいなくなった渋谷の路地裏を歩いて、樹木が異常に少なくてその存在価値すら希薄な公園に落ち着いた。彼は、そこにあったジャングルジムを見つけると子供のように歓喜の声をあげ、幸せこのうえないという顔で、その大きな体を窮屈そうに滑り込ませ、アイスクリームを頬張った。その時、ぼくは彼が抱え込んでいるもの、そのものを観ているような気持ちになっていた。「尾崎豊とは何者なのか」が少しだけ分かりかけた気がしたのだ。今となってはその時感じたことをうまく言い表わすことはできないが、哀しくて、せつない感情を伴うものだった。ぼく自身も日々の仕事に追われる中で、ささやかながら創作時の孤独を感じてしまうことが多かったが、彼に感じたもの、それは俗に言う表現者の孤独とは別物だった。ジャングルジムの中でぼんやりといつまでも夕陽を眺めているその姿は、電話の時の笑い声とはうらはらな気がして、ぼくは言葉をなくしてしまい、あたりが暗くなっていく中で、じっと何かが起きるのを待つしかなかった。

彼の長くて白い指にアイスクリームの溶けた純白が絡んで冷たそうだった。

あたりを取り囲む静寂と紫色に塗り込められていく世界は、心地よいものではあったが、夕暮れは無情にもその速度をどんどん増していった。愛用の一眼レフにセットしたトライエックスに、露光の限界が訪れようとしていることに気づいて、ぼくは先に言葉を発する必要に迫られてしまった。
「尾崎くん、もう終わりにしようか? 最後に何かいいアイデアでもあれば撮ってみるけど?」すると、彼は少し微笑んでからジャングルジムを降り、公園の前の道に座り込み、溶けかかったアイスクリームで世界中の彼や彼女がいちばん必要としているその単語を書き記した。
 実に哀しくも美しいパフォーマンスだった。灼けた熱気を含んだアスファルトはまるでそれを欲していたかのように、瞬時にしてその冷たくて暖かいメッセージを吸い込んでいった。

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この連続カットをよく見てみると、最後のあたりでアイスクリームが無くなってしまい、手で延ばして完成させている様子が記録されています。
Posted by OZAKI-20
 
[Tajima
街路樹のジャケット写真
jk-9

facebookをご覧になっていない方に、一ヶ月ほど前にfacebook上に掲載したぼくの記事を少しずつ転載していきますので、よろしくおねがいします。 田島照久

街路樹の頃

突然だったが、それでいて丁寧な電話があった。「田島さん、尾崎ですけど、ジャケットの写真の確認やなんかで、今日これから、そちらにお伺いしたいんですけど、いいでしょうか」とりあえず、ぼくはいくつかの予定を調整して彼を待つことにした。
「こんにちわー」それから2時間ほどして、彼はひとりで現れた。1枚のアルバムとしては長すぎた創作期間から解放されたばかりの彼の声は弾んでいた。ライトテーブルに拡げておいた、その1週間前に撮影した写真をひととおり見終わると、「うん、いいですね」と一言。ぼくがあらかじめ候補に選んでおいたジャケット用の写真は、彼もいちばん気に入った様子だった。特に少し痩せて精悍に見えるようにライティングしたのがよかったようで、「いやー、嬉しいな、こんなふうに撮ってもらって」と文句なしということだった。デビュー以来、初めてのオフィシャルなカラー写真でもあった。その他に珍しく笑った表情のカットがよくて、そのモノクロプリントを焼いておいたのだが、その笑い皺いっぱいの写真を思った以上に気に入ってくれて、それもどこかに使いたいということになった。そして、その写真のところに、合わせて載せる文章も書きたくなったというので、紙と鉛筆を渡すと、その場であのライナーノートをあっという間に書き上げてしまった。ぼくが「よくそんなに、すぐ書けるもんだね」と驚いて言うと「いちおう、こういうことを生業にしてますから」と笑って応えてくれたのだが、ぼくはずいぶん間の抜けた質問をしていたに違いない。
 アルバムタイトルは「街路樹」と決まっていて、いつもはその英語版をデザイン用に考えるようにしていたが、今回はぜひ日本語のままでという要望だった。ぼくもその案には賛成だった。十代の時からずっと続けていた方法をそろそろ変えるべきだと考えていたので、何も細工を加えないで、潔くポートレイトだけのデザインにすることにした。レコード会社も違う、プロデューサーも代わったこのアルバムは、そんなわけで、デザインもずいぶんそれまでとは違うものになってしまった。
 そんな打ち合わせも済んで、お茶を飲んでいると「そういえば今日、ぼく、尾崎豊みたいなヤツと間違えられたんですよ」と彼は話し始めた。
「オザキ・ユタカ・ミタイナヤツト・マチガエラレタ?」ぼくがちょっと混乱ぎみに聞き返すと、
「ええ、変でしょ、このぼくと間違えられたんです」と笑って彼は続けた。「実はこの原宿まで、山手線で来たんですけど、ぼくの向かい側にふたりの男が座っていて、そいつらが、ぼくの方をチラチラ見て、指差したりしながら、何か話してるんですよ、失礼なヤツらだなと思っていたら、話し声が聞こえたんです。そしたら、最近よく見るんだよな、あんな尾崎豊みたいな格好してるヤツ、て言ってるんですよ。そこで、ぼくもくやしいから聞こえるように、うるさいなあー、いちおう、本人なんだけど、て言ってやったんですよ。ところが信じてもらえなかったみたいで、鼻で笑われてしまったんです。だからぼく、その尾崎豊みたいなヤツと間違われたんです」
 ぼくは大笑いしてしまったが、テレビにも出なければコンサートも長くやっていない、しかしその作品や存在だけは多くの人に知られている、その頃の彼の状況を物語る出来事だとも思った。
「じゃあこれで、諸々よろしくお願いします」陽も明るいうちに、全ての確認作業は済んでしまい、笑顔を残して彼は帰っていった。考えてみれば、終始笑顔を絶やさない、さわやかな印象の尾崎くんを見たのは、この時が最後だったように思う。
Posted by OZAKI-20
 
[Tajima
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